薩摩焼古窯五本松窯跡一基
〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山498-2
美山五本松の山の斜面にあり、現在は杉林に覆われている。窯はすでに崩壊しているが、窯床の幅1m、長さ30mが残っている。半円筒形単式傾斜窯であろうと推測される。朝鮮半島の古い形式を受け継いだものであろう。
〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山498-2
美山五本松の山の斜面にあり、現在は杉林に覆われている。窯はすでに崩壊しているが、窯床の幅1m、長さ30mが残っている。半円筒形単式傾斜窯であろうと推測される。朝鮮半島の古い形式を受け継いだものであろう。
〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田
湯田稲荷神社にある。狛犬像は作られた年代は不明であるが、吽像(うんぞう)を島津忠国(在位1425~1459)の時、鹿児島に移したとされている。現在の吽像は正徳5年(1715)3月に庚申供養で再建したものである。仁王像は鳥居の左右に建てられた、面貌鋭く精巧に作られた石像である。阿像(あぞう)(高さ232㎝)には正徳5年(1715)3月に建てたと刻み、吽像(うんぞう)(高さ242㎝)には石工・神主・噯(あつかい)の名前が刻まれている。
〒899-2203 鹿児島県日置市東市来町伊作田2535
道材は南北朝時代中頃の伊作田城主で、南朝方として戦ったと伝えられている。7基の五輪塔が並んでいるが、どれが道材の墓かは不明である。1基には「比丘尼道性建武三年(1336)」と刻まれている。
〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山973
「御定式(ご じょうしき)窯」とも呼ばれている。美山の窯之平にある連房式登り窯で寛延年間(1748~1751)に藩の御用窯として築かれた。藩主もしばしば訪問し、製品は海外にも輸出されたという。約120年間使われ、明治初年に廃窯。
〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田1821-2
笠をかぶり、袴を着け、右手にメシゲを左手に椀を持ち、舞を舞っている形の田の神像。元文4年(1739)3月に郷士たちが建てた。現在、周辺は住宅地になっている。
〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田3878
湯田稲荷神社裏山の、椎の木の根元に10月から11月に発生する顕花植物である。高さが3~4㎝でその姿が「奴(やっこ)」の歩く姿に似ているので、この名が付けられたとされている。
〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山
薩摩藩が明治維新を成し遂げる上で、家老調所広郷の財政改革による功績が評価されています。また、美山で磁器の生産を推進し成功させました。美山の人々は調所に感謝し、玉山神社に招魂墓を建立しました。
〒899-2502 鹿児島県日置市伊集院町徳重1786
徳重にある祭神は、「精矛厳建男命(くわしほこいつたけおのみこと)=島津義弘公」です。廃仏毀釈により菩提寺妙円寺が壊され、明治4年、妙円寺の本堂を神殿として建てられました。義弘公は妙円寺を自分の菩提寺として定め、仏師に彫刻させた自分の像を妙円寺に納めました。境内はそのままであり、木造は御神体として安置されています。なお、義弘公が関ヶ原の戦いで苦戦し、敵の中を突破した勇気をしのぶ「妙円寺詣り」は、今も盛んに受け継がれています。
〒899-2502 鹿児島県日置市伊集院町徳重
勤皇で知られる幕末の志士・平野国臣は、万延元年(1860年)の10月に倒幕工作のために薩摩入りした。しかし願いは叶わず、帰途につく途中、この伊集院の地から眺めることのできる桜島に心情を例え、有名な歌を残した。それが「我が胸の 燃ゆる思ひに くらふれば 烟はうすし 桜島山」である。現在の碑のたつ位置からは、桜島の頂上付近を眺めることができる。
幻の宰相と呼ばれる小松帯刀。それは彼が類稀なる才能と手腕を幕末の混乱期に家老として発揮しながらも、明治三年(1870年)に若くして亡くなったことを惜しんでのことである。 小松は天保六年(1835年)、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善の三男として生まれ、政情不安定な幕末維新期に生き、活躍する。 のちに吉利(現日置市)領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清兼と改名した。島津斉彬のもとでは火消隊長などになっている。斉彬の死後の文久元年(1861年)には側役に昇進して、大久保利通を重用するなどしながら島津久光・忠義を補佐した。文九二年(1862年)からは家老として、倒幕に向けて薩長同盟や王政復古、そして明治維新に尽力した。維新後は参与として版籍奉還を画策するなど、これからを期待される人材であったが、明治三年(1870年)に病気のため、36歳の若さで亡くなった。