本田兄弟の墓碑
本田兄弟の墓碑

鹿児島県日置市伊集院町大田

戊辰の役で戦死した伊集院の郷士本田親正、親直の墓碑である。兄弟の父と交流があり、兄弟を可愛がっていた西郷隆盛が明治2年に建立した。碑面には西郷の直筆で追悼文が刻まれている。

日置市観光協会
徳重神社島津義弘公御神体

〒899-2502 鹿児島県日置市伊集院町徳重1786

島津義弘が妙円寺を自分の菩提寺と定め、仏師康厳に命じて自己の木像を彫刻させて納めたものである。妙円寺が廃仏毀釈で破壊され、跡地に造られた徳重神社の御神体になっている。

智賀尾神社の鳥居
智賀尾神社の鳥居

〒899-2311 鹿児島県日置市東市来町養母7352

鳥居の柱に慶安4年(1651)3月の建造と刻まれている。上部のがくづか額束には梵字が刻まれており、これは神仏混合の時代の名残とおもわれる。

堂平窯跡

〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山1142

薩摩焼は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~1598)の際に島津義弘公が朝鮮の陶工を連れ帰ったことから始まります。陶工たちは各地に散らばり、陶器づくりを始めました。堂平窯は1600年代の前半に使われた窯で薩摩焼の初期の窯であることが最近判明しています。窯は幅約1.2m、長さ約30mで、煙突を横にしたような構造の細長い窯です。

青面金剛像
青面金剛像

〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田4010-2

庚申供養で建てられたもの。顔は憤怒の形相で、火焔の髪を逆立てている。県内に100体以上あると推定されるが、ほとんどは大隅半島で、薩摩半島ではめずらしい。

大明寺跡の石塔
大明寺跡の石塔

〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田4010-2

大日寺(長里地区の鶴丸小学校の場所にあった)の末寺で、桂峯山宝持院大明寺と称していた。この石塔には大明寺を移転した経緯を記してある。高さ1.7m、横幅約45㎝の角柱である。

かくれ念仏洞穴
かくれ念仏洞穴

〒899-2202 鹿児島県日置市東市来町長里5311

江戸時代の薩摩藩では一向宗(真宗)を禁じて厳しく取りしまったので、信者たちはここに隠れてひそかに信仰を続けた。洞穴の中には、空気孔や仏像を置いたと思われる棚なども残っている。

阿弥陀如来像三体
阿弥陀如来像三体

〒899-2202 鹿児島県日置市東市来町長里5311

養母地区田代の東福家の氏神として祀られている3体の木像。中央の木像の背面には、応永33年(1426)9月の墨書があり、鹿児島で最も古い木像の可能性がある。

荻前田橋
荻前田橋

〒899-2202 鹿児島県日置市東市来町長里5311

昭和6年、養母の大里川の上流に架けられた石橋である。東市来地域に残る34基の石橋でただ一つの2連式アーチ型の石橋である。橋の長さは21.6mである。

石敢當
石敢當

〒899-2202 鹿児島県日置市東市来町長里1569

高さ164㎝で、日置市内の石敢當の中でも最も大きい。安永3年(1774)に魔よけのため杉之迫郷中が建てたものであるが、「右ゆのもととをり」の文字も刻まれているので、道標も兼ねていたと思われる。

薩摩焼古窯南京皿山窯跡二基
薩摩焼古窯南京皿山窯跡二基

〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山975

美山地区の山中の斜面にあり、2基の登り窯跡が並んでいます。斜面の下から見て、右側は幅約9m、長さ約22m、左側は幅約7m、長さ約17mで、美山の窯跡で最も大きなものです。弘化3年(1846年)に調所笑左衛門広郷の助力によって開かれ、明治4年(1871年)の廃藩置県によって操業を終えたようです。 調所は、薩摩藩の財政建て直しのため、藩内各地の産業振興を進めており、苗代川(現在の美山)には責任者として村田堂元を派遣しました。苗代川では「黒もの」と呼ばれる陶器の生産が主でしたが、調所の政策によって本格的な磁器の生産が始まりました。南京皿山釜は磁器生産を目的とした釜で、茶碗、皿、土瓶、鉢など日用雑器を中心に生産しました。 従来の陶器生産に加え、磁器の生産が始まったことで、苗代川はおおいに栄えたようです。美山の玉山神社には、調所と村田に感謝して建てられた「招魂墓」が残っています。

薩摩焼古窯五本松窯跡一基
薩摩焼古窯五本松窯跡一基

〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山498-2

美山五本松の山の斜面にあり、現在は杉林に覆われている。窯はすでに崩壊しているが、窯床の幅1m、長さ30mが残っている。半円筒形単式傾斜窯であろうと推測される。朝鮮半島の古い形式を受け継いだものであろう。

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