歴史・文化

稲荷神社

〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田4008-イ

数ある稲荷神社の中で、鹿児島県では初めての「稲荷神社」。祭神は「稲の神・倉稲魂之命」・「道開きの神・猿田彦大神」、「学問や踊りの神・宮毘姫之命」です。 国の天然記念物・ヤッコソウの発生地としても有名です。 大祭は3月3日の御田植祭。鹿児島弁でおもしろおかしく行われる即興の「田演劇」に、会場は笑いで包まれます。

徳重神社

〒899-2502 鹿児島県日置市伊集院町徳重1786

徳重にある祭神は、「精矛厳建男命(くわしほこいつたけおのみこと)=島津義弘公」です。廃仏毀釈により菩提寺妙円寺が壊され、明治4年、妙円寺の本堂を神殿として建てられました。義弘公は妙円寺を自分の菩提寺として定め、仏師に彫刻させた自分の像を妙円寺に納めました。境内はそのままであり、木造は御神体として安置されています。なお、義弘公が関ヶ原の戦いで苦戦し、敵の中を突破した勇気をしのぶ「妙円寺詣り」は、今も盛んに受け継がれています。

平野国臣歌碑
平野国臣歌碑

〒899-2502 鹿児島県日置市伊集院町徳重

勤皇で知られる幕末の志士・平野国臣は、万延元年(1860年)の10月に倒幕工作のために薩摩入りした。しかし願いは叶わず、帰途につく途中、この伊集院の地から眺めることのできる桜島に心情を例え、有名な歌を残した。それが「我が胸の 燃ゆる思ひに くらふれば 烟はうすし 桜島山」である。現在の碑のたつ位置からは、桜島の頂上付近を眺めることができる。

小松帯刀
小松帯刀

幻の宰相と呼ばれる小松帯刀。それは彼が類稀なる才能と手腕を幕末の混乱期に家老として発揮しながらも、明治三年(1870年)に若くして亡くなったことを惜しんでのことである。 小松は天保六年(1835年)、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善の三男として生まれ、政情不安定な幕末維新期に生き、活躍する。 のちに吉利(現日置市)領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清兼と改名した。島津斉彬のもとでは火消隊長などになっている。斉彬の死後の文久元年(1861年)には側役に昇進して、大久保利通を重用するなどしながら島津久光・忠義を補佐した。文九二年(1862年)からは家老として、倒幕に向けて薩長同盟や王政復古、そして明治維新に尽力した。維新後は参与として版籍奉還を画策するなど、これからを期待される人材であったが、明治三年(1870年)に病気のため、36歳の若さで亡くなった。

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