吉利神社
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利岩井田
祭神は鎌倉權五郎景政をはじめ、8座の神である。鎌倉景政は後三年の役(1083~1087)で敵将鳥海弥三郎に左眼を射られたが、その矢を7日間も抜かずに弥三郎を追い、これを射殺して勇名をとどろかしたと伝えられている。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利岩井田
祭神は鎌倉權五郎景政をはじめ、8座の神である。鎌倉景政は後三年の役(1083~1087)で敵将鳥海弥三郎に左眼を射られたが、その矢を7日間も抜かずに弥三郎を追い、これを射殺して勇名をとどろかしたと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置89
水神と並んで祀ってある。道路改修や土地の崩落などで何回か移動し、平成6年に現在地に安置された。田の神には年代は刻まれていないが、水神には宝永7年(1710)と刻まれており、同年代に作られた可能性がある。
〒899-3102 鹿児島県日置市日吉町山田2154-1
子宝と安産に霊験あるとして参詣が多い。山田家15代有信の奥方は子がなく、岩屋観音に男子を授かるよう祈願した。天正6年(1578)に男児が産まれたが、奥方はすぐに亡くなったという。この子が高名な武士山田昌巌である。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利片町
天文2年(1533)に桑波田孫六と島津実久(薩州家)は南郷城を奪回するため兵を進めたが、島津忠良と貴久(本家15代太守)に敗北した。鹿児島塚はこの時の戦場の後始末で集めた敵の武具類を埋めたものとされている。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利7585-1
開山は薩藩禅宗の開祖石屋真梁和尚である。石屋は元中3年(1386)に深固岳の北麓に草庵を結び深固院と名付けて布教を始めた。寺はその後なくなったが貞享3年(1686)吉利領主21代清雄の時に再興した。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利5004-3
建立は応永24年(1417)で、文禄4年(1595)に禰寝重張が吉利に移封された時小根占からこの地に移した。初代清重以下の霊を集め祀る外、17代重張以下歴代領主の墓があり、明治維新の功臣小松帯刀の墓もある。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利
祭神は禰寝家16代右近太夫重長である。重長は大隅地方に勢力を振るい剛勇の聞こえ高く、善政を布いたため慕われたという。その子重張は小根占から吉利領主に移封されたのでここに鬼丸神社を建立して父の霊を祭った。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置5680
大乗寺は島津15代太守貴久の夫人雪窓の建立によるもので開山は一岳等忍和尚である。文禄4年(1595)に日置島津3代常久は初代歳久の冥福のためここを日置島津家の菩提寺にしたという。明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置
祭神は天照大神、天津彦彦火瓊々杵尊、栳幡千々姫命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。文禄4年(1595)に日置島津3代常久によって、日置52社の総鎮守となっている。毎年6月の第1日曜日に「せっぺとべ」が行われている。
〒899-2524 鹿児島県日置市伊集院町恋之原
祐兄は戦国時代後期の武士で、島津本家15代太守貴久が敵対する島津実久に攻められ、清水城(現鹿児島市)を脱出する際に貴久を守った。ほかにも功績があり、伊集院の恋之原に土地をもらい、ここで亡くなったとされている。
〒899-2501 鹿児島県日置市伊集院町下谷口1887
巨岩の表面を磨いて阿弥陀三尊像が刻まれている。中央に阿弥陀如来、右に脇侍観音、左に勢至で、脇侍が跪座して如来を迎えるのは珍しい。裏面には解読不能の変わった梵字が刻まれている。