蛭子像
〒899-3301 鹿児島県日置市吹上町中原
島津忠良(日新公)が蛭子像2体(高さ36㎝)を彫刻し、蛭子神社に安置したと伝えられる。文化3年(1806)に紛失したので新しく2体作ったが、文化9年に発見されたので、新旧4体の蛭子像が供えられている。
〒899-3301 鹿児島県日置市吹上町中原
島津忠良(日新公)が蛭子像2体(高さ36㎝)を彫刻し、蛭子神社に安置したと伝えられる。文化3年(1806)に紛失したので新しく2体作ったが、文化9年に発見されたので、新旧4体の蛭子像が供えられている。
〒899-3221 鹿児島県日置市吹上町永吉
縄文時代から平安時代にいたるまでの長期間使用された巨大な洞穴。黒川式と名づけられた土器や石器等の道具類、大量の貝殻、動物の骨が発見された。また、約3000年前とされる埋葬された女性の骨も発見された。
〒899-3308 鹿児島県日置市吹上町中田尻
享保2年(1717)の建立で、年代が明らかなものとしては県内でも古いものである。高さ約1メートル、杓子を持った地蔵型立像の田の神である。
〒899-3308 鹿児島県日置市吹上町田尻
建久7年(1196)に、島津家の祈祷僧として島津初代忠久に従って薩摩に下った宝山検校が、田尻中島に常楽院を建立したと伝えられている。薩摩琵琶発祥の地とも伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置毘沙門
伊集院の一宇治城主紀時清が、城の守り神として安置したとされている(1180年頃)。天文19年(1550)に島津貴久が一宇治城を攻め落とし、毘沙門天を日吉へ移したと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置中原
石屋和尚(1349~1428)が持地庵の本尊として自分で彫った石の地蔵菩薩とされている。左手に宝珠、右手に錫杖を持った地蔵菩薩の石像である。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置3390-1
足利3代将軍義満の書と伝えられている。額の左側に小さく「鹿苑院殿台翰」の文字が見える。鹿苑院とは足利義満の戒名で、台翰は書に対する敬語である。後世の人が、義満が書いたことを示したものであろう。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利尾之上
平維盛の長男六代の木像で、高さ40cmの大きさで現在吉利の清浄寺に安置してある。維盛は平清盛の孫なので六代は清盛の曾孫にあたる。六代の子次郎が、吉利禰寝家(後に小松と改姓)の初代清重と伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置中原
建久7年(1196)島津家初代忠久が、薩摩国に下向の折、沖で暴風雨に遭った。熊野権現に暴風を静めるよう祈願すると、波が静まり着船上陸できたので、忠久は深く神の恩に感謝しこの地に神社を建立したと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置城ノ下
日置3代領主島津常久は一岳等忍和尚に寺を再興させ、ここを父忠隣の菩提寺とした。忠隣は、天正15年(1587)に羽柴秀長の大軍と日州根白坂で戦い、戦死している。西郷隆盛に影響を与えたとされる赤山靭負の墓もある。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置352
日置初代島津歳久の夫人(悦窓院)は、慶長7年(1602)に瑞岳和尚を招いて寺院を建てた。これが瑞喜山光禅寺となった。3代領主島津常久と同夫人、初代歳久公夫人その他島津家ゆかりの人や殉死した家臣の墓などがある。