有馬新七先生墓碑
〒899-2501 鹿児島県日置市伊集院町下谷口
有馬新七は吉田松陰、真木和泉と並ぶ明治維新原動力の志士で、薩摩での尊王攘夷の中心として活躍しました。文久2年(1862年)4月、京都の寺田屋で同じ薩摩藩士と斬り合いの末壮絶な死を遂げました。(寺田屋事件)墓は南林寺墓地撤去により現在地に移されたものです。
〒899-2501 鹿児島県日置市伊集院町下谷口
有馬新七は吉田松陰、真木和泉と並ぶ明治維新原動力の志士で、薩摩での尊王攘夷の中心として活躍しました。文久2年(1862年)4月、京都の寺田屋で同じ薩摩藩士と斬り合いの末壮絶な死を遂げました。(寺田屋事件)墓は南林寺墓地撤去により現在地に移されたものです。
〒899-2443 鹿児島県日置市伊集院町寺脇87
開山は息山和尚と由緒記にあり、伊集院郷中では最も古い寺で平安末期には存在していたと考えられている。南北朝期の武将伊集院忠国と夫人、僧侶等の20数基の石塔が残っている。
〒899-2501 鹿児島県日置市伊集院町下谷口
嘉永3年(1850)11月29日に着工、翌年1月20日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。碑に刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。
〒899-2443 鹿児島県日置市伊集院町寺脇
嘉永3年(1850)11月20日に着工、翌年2月8日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。
鹿児島県日置市伊集院町大田
戊辰の役で戦死した伊集院の郷士本田親正、親直の墓碑である。兄弟の父と交流があり、兄弟を可愛がっていた西郷隆盛が明治2年に建立した。碑面には西郷の直筆で追悼文が刻まれている。
〒899-2502 鹿児島県日置市伊集院町徳重1786
島津義弘が妙円寺を自分の菩提寺と定め、仏師康厳に命じて自己の木像を彫刻させて納めたものである。妙円寺が廃仏毀釈で破壊され、跡地に造られた徳重神社の御神体になっている。
〒899-2311 鹿児島県日置市東市来町養母7352
鳥居の柱に慶安4年(1651)3月の建造と刻まれている。上部のがくづか額束には梵字が刻まれており、これは神仏混合の時代の名残とおもわれる。
〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山1142
薩摩焼は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~1598)の際に島津義弘公が朝鮮の陶工を連れ帰ったことから始まります。陶工たちは各地に散らばり、陶器づくりを始めました。堂平窯は1600年代の前半に使われた窯で薩摩焼の初期の窯であることが最近判明しています。窯は幅約1.2m、長さ約30mで、煙突を横にしたような構造の細長い窯です。
〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田4010-2
庚申供養で建てられたもの。顔は憤怒の形相で、火焔の髪を逆立てている。県内に100体以上あると推定されるが、ほとんどは大隅半島で、薩摩半島ではめずらしい。
〒899-2201 鹿児島県日置市東市来町湯田4010-2
大日寺(長里地区の鶴丸小学校の場所にあった)の末寺で、桂峯山宝持院大明寺と称していた。この石塔には大明寺を移転した経緯を記してある。高さ1.7m、横幅約45㎝の角柱である。
〒899-2202 鹿児島県日置市東市来町長里5311
江戸時代の薩摩藩では一向宗(真宗)を禁じて厳しく取りしまったので、信者たちはここに隠れてひそかに信仰を続けた。洞穴の中には、空気孔や仏像を置いたと思われる棚なども残っている。