毘沙門天
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置毘沙門
伊集院の一宇治城主紀時清が、城の守り神として安置したとされている(1180年頃)。天文19年(1550)に島津貴久が一宇治城を攻め落とし、毘沙門天を日吉へ移したと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置毘沙門
伊集院の一宇治城主紀時清が、城の守り神として安置したとされている(1180年頃)。天文19年(1550)に島津貴久が一宇治城を攻め落とし、毘沙門天を日吉へ移したと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置中原
石屋和尚(1349~1428)が持地庵の本尊として自分で彫った石の地蔵菩薩とされている。左手に宝珠、右手に錫杖を持った地蔵菩薩の石像である。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置3390-1
足利3代将軍義満の書と伝えられている。額の左側に小さく「鹿苑院殿台翰」の文字が見える。鹿苑院とは足利義満の戒名で、台翰は書に対する敬語である。後世の人が、義満が書いたことを示したものであろう。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利尾之上
平維盛の長男六代の木像で、高さ40cmの大きさで現在吉利の清浄寺に安置してある。維盛は平清盛の孫なので六代は清盛の曾孫にあたる。六代の子次郎が、吉利禰寝家(後に小松と改姓)の初代清重と伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置中原
建久7年(1196)島津家初代忠久が、薩摩国に下向の折、沖で暴風雨に遭った。熊野権現に暴風を静めるよう祈願すると、波が静まり着船上陸できたので、忠久は深く神の恩に感謝しこの地に神社を建立したと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置城ノ下
日置3代領主島津常久は一岳等忍和尚に寺を再興させ、ここを父忠隣の菩提寺とした。忠隣は、天正15年(1587)に羽柴秀長の大軍と日州根白坂で戦い、戦死している。西郷隆盛に影響を与えたとされる赤山靭負の墓もある。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置352
日置初代島津歳久の夫人(悦窓院)は、慶長7年(1602)に瑞岳和尚を招いて寺院を建てた。これが瑞喜山光禅寺となった。3代領主島津常久と同夫人、初代歳久公夫人その他島津家ゆかりの人や殉死した家臣の墓などがある。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利岩井田
布袋様に似た石像を中心に子供達の像が並んでいる。これが乳地蔵で、昔はこの地蔵に参拝すると乳がよく出るようになると伝えられ妊産婦の参拝者が遠くからも来ていたということである。
〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利岩井田
祭神は鎌倉權五郎景政をはじめ、8座の神である。鎌倉景政は後三年の役(1083~1087)で敵将鳥海弥三郎に左眼を射られたが、その矢を7日間も抜かずに弥三郎を追い、これを射殺して勇名をとどろかしたと伝えられている。
〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置89
水神と並んで祀ってある。道路改修や土地の崩落などで何回か移動し、平成6年に現在地に安置された。田の神には年代は刻まれていないが、水神には宝永7年(1710)と刻まれており、同年代に作られた可能性がある。
〒899-3102 鹿児島県日置市日吉町山田2154-1
子宝と安産に霊験あるとして参詣が多い。山田家15代有信の奥方は子がなく、岩屋観音に男子を授かるよう祈願した。天正6年(1578)に男児が産まれたが、奥方はすぐに亡くなったという。この子が高名な武士山田昌巌である。